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成基学園を巣立った人々

成基学園を巣立った人々

成基学園を巣立った人々:谷口洋子

成基学園を巣立った人々:谷口洋子

「10年後の自分」をはっきり思い描いて、
夢に向かって歩んでほしい


1962年 京都市生まれ
1975年 京都教育大学附属中学入学
1978年 京都教育大学附属高校入学
1982年 京都府立医科大学入学
1988年 同大学卒業 医師国家試験合格
1993年 京都府立医科大学第二内科研究医
1995年 京都府宇治市に谷口内科医院を開業

『自由自在』を毎月一冊こなして、附属中学に合格!

成基学園と言うと、真っ先に思い出すのが、6年生の最後の授業で黒板の前に並ばされて、志望校を言ってお尻を叩かれたことですね。それをすると合格すると言って「やってほしいもの並べ」って。誰でもやってもらいますよね(笑い)。竹刀のような棒でたたかれるんです。「ぱーん」と大きな音がしますが、音の割に痛くはなくて、張り扇みたいなものでした。私はあれのおかげで京都教育大学附属中学に合格したのかもしれません。
両親は医師ではなかったのですが、父は医者になりたかったようです。私の負けず嫌いなところ、何事にも真剣に取り組むところを見込んで、父がそう仕向けたのかもしれませんが、私は小学校5年生のときには、京都大学医学部に入って医師になると心に決めていました。大学の医局で、聴診器を首からかけて歩く私の姿が見えていました。
私には年上のいとこが何人かいたのですが、みんな京都大学に合格したので、京都大学に行くのが当たり前だとも思っていたのです。
小学校6年生までは塾にも行かず、家で勉強をしていたのですが、それでもクラスで一番でしたので、当然、附属中学校に行けるものと思っていました。スポーツが大好きでしたが模擬試験もそれなりの点数を取っていました。成基学園の事務局から「あなたの成績なら成基学園に入れますよ」と電話もいただいていたのですが、塾に行って合格しても格好悪いという気もあって、行かなかったのです。

でも、6年生の10月になって母が「そろそろ行った方が」ということで、成基学園に問い合わせました。平日の塾の方は募集がもう終わっていました。日曜進学教室は入ることができましたが、それも前期は終わって後期からでした。
入塾試験を受けたら「附属は五分五分ですね」と言われて、びっくりして焦り出したのです。その頃の成基学園では「6年生になったら『自由自在』を3回はやりなさい」と言っていましたが、私は『自由自在』を成基ではじめて知りました。
これは大変だと言うことで、300ページはあろうかという『自由自在』を1カ月に1教科ずつやっていったのです。母が受験に向けて計画を立てて10月に国語、11月に算数、12月に理科、1月に社会と1冊ずつこなしていったのですが、一冊終わるごとに模擬試験の点数が20点ずつ上がっていきました。
当時、400点満点の模試で260点取れたら附属、280点で洛星、300点で東大寺、320点で灘と言われていたのですが、4科目をやった後は灘の合格ラインを上回っていました。
「こんなに上がるんや!」と自信がついて、これなら落ちるわけがないと、自信満々で受験をして合格しました。

『自由自在』を毎月一冊こなして、附属中学に合格!

たった4カ月勉強しただけで附属に合格したので、私は勉強をちょっとなめていました。中学ではテニス部に入ってそれに夢中でした。京大医学部に入ると言う夢は忘れていませんでしたから、クラスで1割には入っておこうと中間と期末のテストは頑張りましたが、塾にも行かずテニスに励んでいました。
中学2年の時に担任の先生から「今年は附属中学30周年だが、30年の歴史で女子が生徒会長になったことはない、立候補したらどうか」といわれて立候補し、女子初の生徒会長になりました。その活動も忙しくなって、成績も落ちました。
3年の後半になって、これではいけない。私の最大の使命は京大の医学部に現役で行くことだ、と勉強を始めました。
『自由自在』でがんばったことを思い出して、分厚い参考書を一冊丸ごと勉強するやり方で成績を上げて、附属高校に進学しましたが、今から思えば全然なっていませんでした。
高校では、受験で頑張るつもりでいたのですが、テニス部に誘われて、またテニスに夢中になってしまいました。とにかく体を動かすのが大好きなのです。
でもそれではいけないと言うことで、高校に入ってすぐ、家の近所にあった成基学園に通うことにしました。
日没までテニスの練習をして、7時30分から9時30分まで成基学園で授業を受けました。週2回、数学と英語。
クラブは2年生の冬休みまでやって、3年生は勉強だけになりました。テニスをしていたときは、塾で眠ってしまうこともあったのですが、3年生になるとそういうこともなくなりました。
私の家は、附属高校から歩いて15分くらいのところにあります。遠くから来る子に比べれば時間的に余裕があります。だからその分、夜中の3時4時まで勉強しようと思いました。
睡眠不足のために、大好きだった体育の授業でふらふらになって情けない思いをしましたが、とにかく睡眠時間を減らさないと勉強の時間が確保できなかったのです。
私のいとこなどは、お風呂に入る時間も惜しんで、今日はおへそから上を洗う日、明日は下を洗う日とわけてまでがんばったと言っていましたが、それくらい頑張らないと現役合格はできないと思ったのです。
成基学園の英語は、「Progress in English」と言うテキストを使っていました。附属中学では文部省の指導要領に準拠した教科書しか使いません。そのテキストは同志社や洛星で使っていました。この教科書で進んだ英語を学んだことで、実力がつきました。
反対に数学は誰もが使う「チャート式」でした。附属の数学の方がはるかに難しかったのですが、成基で基礎をしっかり学ぶことで学校の授業の補強ができました。
とにかく、数学は誰にも負けたくなかったし、英語も良くできるようになりました。3年の夏休みを過ぎる頃には、京大医学部の判定がBになり、京都府立医大以下はすべてAになりました。
これで、京大医学部現役合格が現実的になってきたと思ったのですが、私は共通一次試験で失敗してしまったのです。

苦しい浪人生活を経て、府立医大合格

英語と数学しかやっていなかったのですが、他の教科は何とかなるだろうと思っていました。しかし1000点満点で900点以上取るはずが、他の教科がだめで850点ほどしか取れなかったのです。
この点数にショックを受けて、二次試験を受ける気力もなくなって泣いてばかりいました。気持ちもめげてしまって、この点数でも京大薬学部なら行けそうでしたので、父に言ったのですが「それはお前の夢じゃない、どうしたんだ」と言われました。「京大薬学部に入って隠れ浪人するから」とも言いました。他の大学の医学部を受けるのはプライドが許さなかったのです。結局、京大医学部を受験して不合格。浪人をすることになりました。
近所の人に「良くできたのに、落ちたらしいよ」と言われてまるで罪人のような気持ちになって浪人生活を送りました。
予備校に入ったのですが、勉強の上位には多浪生がひしめいています。その予備校では50番以内なら京大合格、250番以内で府立医大合格と言われていました。私はどんなに勉強しても、50番以内に入れなかったのです。確か1度しか名前が載りませんでした。
京大はB判定が出ていましたし、実力も確実に上がっていたとは思いますが、二浪は絶対にできないという気持ちもあり、共通一次試験のあとで、親とも相談して府立医大を受験することにしたのです。
共通一次は940点は取っていたと思いますが、二次の配点が京大と府立医大では大きく違っていました。もう失敗はできないと言う思いがあったのです。
そして京都府立医大に合格しました。

研究医、そして出産、開業

京都府立医大で憧れの仕事だった医師になるために勉強をし、国家試験に合格して医師になりました。在学中に同級生だった夫と知り合い、卒業してすぐに結婚しました。

そして、2年間、研修医として勤務しました。大学病院での研修医は本当に寝る間もないほどハードな日々でしたが、2年目には少し楽になりました。
その後、日赤病院に勤務医として配属されました。
女性には出産、育児という大きな仕事があります。子どもができると、女医は育児の傍ら“主婦病院”と言われる病院で週3回程度勤務するのが普通になります。勤務医はともかく、研究医を続けるのは大変難しいと言われていました。
でも、私は日赤病院に勤務していたときから研究を続けていて、海外の学会でも発表させていただいていました。

そういうこともあって、母校の京都府立医大第二内科に研究医として復帰しないか、と誘われたのです。少し迷いもありましたが、私は白血病の研究を続けたいと言う気持ちが強かったので、研究医になることにしました。医師になって5年目のことでした。
研修医の時は大変でしたが、研究医になると診る患者さんも少なくなって、研究に打ち込めるようになりました。「教授になるんだ」という意気込みでがんばりました。
同時に私は30歳になっていました。親からも「子どもをどうする」と言われていましたので、そろそろほしいと思っていました。でも、一人なら親に預ければ、何とかなると思っていたのです。
しかし、32歳で初めて授かった子は双子でした。
産科の主治医の先生に「双子よ」といわれたときは、「人生設計が狂ってしまう」と取り乱しました。偶然にもその産科の先生も双子を出産され、研究の道をあきらめられたのです。「研究を続けるのは無理よ」といわれました。そして男女の双子を出産したのです。
私の研究生活はわずか2年でとん挫しました。
そこで、京都府宇治市内の主人の実家の敷地内で医院を開業することにしたのです。

地域医療に貢献する

もともと開業医になることは嫌ではありませんでした。子どもが小学校に上がる頃には、「ただ今!」と帰ってきたら家にいてやる方がいいとは思っていました。でも、それまでは大学でもう少し頑張って、学位を取って、医長なり、助手なりになってからのつもりだったのです。平の医師のままで開業するとは思っていませんでした。
幸い、大学の恩師が私のことを覚えていてくださって、「学位をあげるから試験を受けに来なさい」と言われました。子どもは小さかったですが、猛勉強をしました。朝の5時から7時まで、夫が双子をベビーカーに乗せて外に連れ出してくれます。その2時間に語学や学位取得に必要な勉強をするのです。そのようにしてがんばって、学位も何とか取得することができました。子どもができた翌年のことでした。
夫の実家周辺は、住宅もまばらで、開業するには良い条件とはいえませんでした。私が来るまでは地域に診療所はありませんでした。それだけに、まじめに診療して対応することがすべてだと思って、努力しました。診療時間はありましたが、24時間できるだけ対応するようにしました。夜中にうちの子どもが吐いていたときに、「子どもが吐きました」とやってきたお子さんと両方を診たこともあります。
地域医療の拠点として、がんばってきました。子どもが生まれた年に開業して今年で17年。
いまでは地域の老人会の「健康を語ろう会」などに呼ばれて講演することもあります。
また京都府医師会の理事として、地域医療を担当し、予防接種の無料化を推進したりしています。
そうした取り組みを通じて、地域医療の世界でのリーダーでいたいと思っています。患者さんの中には、私の話を聞くだけで元気になられる方もいます。医療のことで、自分の知っていることはすべてお話したいと思っています。

医院の年と同じですから、子どもたちは今年17歳。男の子は幼稚園から京都教育大附属に合格しました。そのまま高校まで上がるのだろうと思いましたが、他の高校を受験すると言いだしました。私は附属高校で民主党代議士の前原誠司さんと同級生でしたから「付属高校に行けば前原さんみたいな偉い政治家にもなれるよ」と説得しましたが、聞き入れず、彼は受験をして洛南高校に進みました。
女の子も幼稚園、小学校と付属を受験しましたがくじ運が悪くて落ちてしまいました。小学校ではTAMにもお世話になりましたが、中学もだめでした。そこで大阪の四天王寺中学、高校に学んでいます。
二人ともそろそろ受験を考える年ごろになっています。まだ志望ははっきり言いません。
子どもたちにも言うのですが、私が聴診器を首から下げて大学病院を歩いている自分をはっきり思い描いていたように、10年後に自分は何になっていたいか、イメージを持ってほしいと思います。
そういう夢をはっきり持ってさえいれば、あきらめない限り夢はかなうと思うのです。
皆さんもがんばって、自分の夢のために努力してください。

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