Maeda Takeshi前田 剛志

北海道庁農政部
農業経営局長

2012 年10 月現在

「くやしいか剛志、
くやしいな剛志」から30 年、
少年は、日本の農業の明日を見つめる
政策マンになっていた。

経歴

1970 年
京都府亀岡市生まれ
1985 年
洛南高校入学
1989 年
東京大学法学部入学
1993 年
同大学卒業 農林水産省入庁

※2012年10月時点の経歴です

前田剛志氏は、農水省のキャリア官僚として、日本の農業、「食」の明日を考えてきた。東京だけでなく、地方に出向し、さまざまな視点で農政を考え、いろいろな施策を展開してきた。

前田剛志氏は、農水省のキャリア官僚として、日本の農業、「食」の明日を考えてきた。東京だけでなく、地方に出向し、さまざまな視点で農政を考え、いろいろな施策を展開してきた。

今、私は北海道庁農政部農業経営局長として、北海道の農業を元気にしていく仕事をしています。
皆さんご存じの通り、おいしい食べ物がいっぱいあります。日本一の農業地域です。農地の面積は全国の四分の一、国民の食料の20%は、北海道で生産されているのです。
この北海道の農業をもっと振興したいと考えています。
具体的には、よりよい品質の食料を作るために、品種開発も行っています。また、あちこちに散らばっている農地を集約して、生産規模を大きくし、効率的な農業ができるような施策も行っています。これによってより安く食料を提供することができます。
さらに食材を加工品にしたり、それを外食産業や海外に上手に販売する方法も考えています。
そうした仕事を通じて、北海道で農業に従事する人の収入が上がるように考えています。

北海道庁に出向して約1 年6 カ月。ようやく、 北海道の農業の全貌が見えてきたという。

役所の仕事は、プランを作ってそれに賛同していただける農家やメーカーさんと組んで、事業を展開していくという仕事です。 北海道は、広くて、地域によって農業の形態も違います。その地域に合ったプランを立てていくためにも、各地をつぶさに見て回りました。ようやく、全体が見えてきたように思います。 北海道庁農政部農業経営局長は、農水省との人事交流のためにあるポストです。3 年ごとに農水省から出向になります。私の任期もほぼ半分が過ぎました。 北海道の農業がうまくいくかどうか、農業の将来がかかっているという認識で、全力投球したいと思っています。

日本最大の食糧生産地である北海道、しかし、いろいろな面で改善、解決すべき問題がある

北海道では、確かに良い素材をたくさん生産しているのですが、自分たちで加工したり、販売ルートを開拓したりすることはあまりなかったのです。
北海道の農業は、規模が大きいのが特色です。生産者の皆さんは、少しでも良いものを、たくさん作ることに24 時間365 日戦力を注いでいて、加工や流通まで手が回らないのです。
素材を作るまでが自分たちの仕事、それを本州に持って行って「あとはよろしく」と言う感じだったのです。
末端の消費者が購入する食品の価格のうち、原材料の比率は30%~40%に過ぎません。残りの60%~70%は、加工業者や流通業者のものになります。
北海道の生産者はせっかく良い食材を作っているのに、それを安い価格で売っているのです。
私たち関西の人間からすれば、もっとがめつくても良い。自分で加工も流通もして付加価値を取ってほしいと思います。
そこで、北海道に加工、流通の拠点をつくり、力を入れていこうと考えています。

前田氏は、以前、 青森県庁にも出向し、地域の農政を担当していた時期がある。

2002 年から2004 年 まで、青森県庁に出向していました。そこで現場の農業の仕事をさせてもらったので、もう地方への出向はないと思っていました。だから北海 道に出向を命ぜられたのは、青天の霹靂でしたよ(笑い)。
しかし、地方、現場で農業の仕事をするのは大変重要なことです。私は京都近郊の亀岡で育ちました。亀岡は農家が半分くらいありますが、私自身は農業事情は詳しくありませんでした。
東京で仕事をしていると、現場でどんな問題が起こっているか、どういう成功事例があるか、全く分かりません。 地方に出向して初めて見えてきたこともたくさんあります。
ご存じのように、青森はリンゴの一大産地です。品質の良いリンゴを安心して供給するためにいろいろ施策を考えました。
青森は、リンゴだけでなく、米や長いも、にんにくなども良いものができるようになっています。そういう品種改良や生産体制の整備も行いました。
また、青森では農林水産部にいましたので、農業だけでなく林業や漁業の仕事もしました。青森には、イカ、ホタテなどおいしくて品質の良い水産物もあります。限られた地方ではありますが、大間のマグロも有名ですね。
農林水産業に従事されるみなさんを取り巻く環境は、厳しくなりつつありますが、自分たちの作っているものに誇りを持ってがんばっておられます。
私たちは、そのお手伝いをさせていただいたのです。

青森県庁に在任中、前田氏は中国と商標をめぐる係争を経験している。それは、今、いろいろな分野で起こっている、国際的な知的財産権を巡る問題の、 先例ともいうべきものだった。

青森のリンゴは、全国的に有名なだけでなく、台湾や中国でも有名です。そこに目をつけて中国で「青森」という商標を取得した人がいたのです。
青森から「青森産リンゴ」を輸出しようとしても、中国では「青森」を許可なく使用することができない。生産者の皆さんが困ってしまったのです。
そういう事件はこれまで起こったことがない。どういう風に対処していいか分からない。私は、農水省、外務省、JETRO(日本貿易振興機構)などあちこちに相談して右往左往しました。
私は東京大学法学部出身ですから、法律の専門家ではあります。中国の商標法を見つけてきて、どんなことが書いてあるか調べました。大変でした。
最終的に弁護士に相談して国際裁判を起こしました。中国の裁判は時間がかかります。私の在任中は、決着がつきませんでしたが、農水省に戻ってから、勝訴したとの報告をいただきました。
これで、青森の生産者は安心してリンゴを輸出することができるようになったのです。
前例のない問題と取り組んで、独自に解決策を見出し、青森県民のためにお役に立ったということで、私にとっては役所冥利に尽きる仕事でした。

前田氏は、東京の農水省在勤のときも、食の安全と農業の未来につながる、画期的な仕事をしている

農水省では最初、食糧庁企画課に配属されました。米の生産流通販売を管理する部署です。これまで、米は戦後の食管制度の時代のまま流通を規制管理していましたが、社会の実情に対応した新食糧法が制定され、規制緩和が進みました。私はこれに携わり ました。
続いて、食品流通局品質課に配属されました。この部署は、JAS 法に基づいて食品の表示のルールを作っています。商品名、原材料、製造所などの表示です。
これまで野菜には表示がされていなかったのですが、産地表示をすることにしました。平成7~8 年ごろのことです。安全な食品を求める消費者ニーズが高まっていましたし、外国から輸入した野菜を「青森県産」などと偽装する事件も起こっていました。
産地表示がなかったために、まじめに生産している方々が損をしていたわけです。そこで野菜の産地表示も義務付けるよう、JAS 法を改定しました。
これは、私にとって特に思い出深い仕事でしたね。

さて、前田剛志氏 は、若き日に成基学園で学んだが、このときに、今も学園関係者がおりにふれて話題にする、印象深い作文を残している。学業に燃える若き日の前田少年の作文は、今も読む人の心を打つ。ここで全文を紹介させていただくが、その前に、前田氏に当時の思い出を語っていただいた。

さて、前田剛志氏 は、若き日に成基学園で学んだが、このときに、今も学園関係者がおりにふれて話題にする、印象深い作文を残している。学業に燃える若き日の前田少年の作文は、今も読む人の心を打つ。ここで全文を紹介させていただくが、その前に、前田氏に当時の思い出を語っていただいた。

中学1~3 年まで成基学園にお世話になったのですが、小学校の時は別の塾に通って中学受験を目指していました。そして中学受験に失敗し、この作文を書いたのです。
中学受験に落ちたときは、父母にも塾の送迎などで迷惑をかけたし、悲しい思いをさせました。その思いを忘れないように、手記に残したのです。
中学時代、私は成基学園五条校に通っていました。丹波口の駅から15分かけて塾まで歩いていました。亀岡から5、6人の友人と通っていました。
当時、山陰線は電化されていなくてディーゼルでした。私たちは「汽車」と呼んでいましたが、行き道は汽車の中でも勉強をしていましたが、帰り道は友人とよく話をしていました。
仲の良い友人がたくさんできました。成基で学ぶ友人は、受験勉強をする中、同じ悩みを持っていましたし、何でも話し合える関係でした。 友人がいたから、がんばることができたのだと思います。
成基学園五条校で学んだの仲間との友情は卒業してからも続いています。「合の会」という同期会があるのですが、塾では珍しいのではないでしょうか。
成基学園で学んだことが、私のその後の人生の礎となっています。その意味でも、忘れ難い日々でしたね。

高校時代の手記

前田 剛志
洛南高校A 入学 東大寺高合格 亀岡中卒業 五条教室中1 より園生
くやしいか剛志、くやしいな剛志(途中で投げるな、あきらめるな、ひたすら歩け)

ぼくは、小学校四年生のときから、ある進学塾に通っていました。自分なりに努力はしましたが、不幸にも中学入試に失敗してしまいました。( 東大寺学園中学校と洛星中学校)。
そして、中学校に入学すると同時に成基学園に入り、三年間通い続けた結果、今春、東大寺学園高校と洛南高校Ⅲ類A に合格することができました。
そこで今回、この合格体験記を書くにあたり、中学校三年間のことを、ぼくの反省も含めて、少しでも皆さんの参考になればと思い書いてみることにします。

一、二年生のころ

洛星中学校の合格発表の日、ぼくは帰りの汽車の中でうずくまっていました。結果は不合格でした。いろいろな人が僕を慰めてくれましたが、涙はとまりませんでした。うるんだ
目で、窓の外を流れ行く光景を見ながら、ぼくは心の中で「くそう、くそう。」と何度も叫びました。くやしくてくやしくてたまりませんでした。しかしそんな中で、ぼくは涙をぬぐいながら、自分に言い聞かせました。「くやしいか剛志。くやしいな剛志。二度とこんなくやしさを味わいたくなければ努力するんだ。今から三年後、笑ってこの汽車に乗れるように、苦しくても我慢するんだ。」
(この考えは、三年間ぼくを支え続けました。苦しい時も悲しい時も、これを思い出して努力し続けたのです。ぼくは小学校の時の失敗を、最大の武器として生かしたと言ってもいいでしょう。)
成基学園では、入園時から特進クラスでしたが、初めての授業では「難しすぎてつい行けない。」と思ったものでした。けれども、なんとかついていこうと思い、一か月間ほど受験前のように必死に努力しました。その結果、クラスでも上位にいることができ、その後もその成績をできる限り維持しようと、ますます努力するようになりました。おかげで三年間、模擬テストで常に上位を保つことができました。
成基学園の授業に確実についていくことのほかに、ぼくは学校の授業を完璧にマスターすることも心がけました。何よりもまず、基本はやはり学校の授業です。特に、軽視されがちな理科と社会に力を入れておくことをおすすめします。それから、ぼくほ通園に一時間以上かかっていまし たが、その通園途中に勉強することができました。皆さんの中にもそんな人がいるかもしれませんが、ほかの人より不利だと思わず有利だと思ってください。ボケーとしているのではなく、単語の一つでも覚えてはどうですか。また、通い続けることによってすばらしい根性、忍耐力もつきます。

夏期講習会

夏期講習会の先生は厳しいと聞いていたので、テキストをもらうと急いで予習をしました。しかし、テキストは電話帳のような厚さで、半分と予習はできませんでした。そうしているうちに講習会がはじまり、毎日朝の四時ごろまで予習に追われました。授業は厳しく、内容も難しかったけれども、休まずについていくことによって、かなり身につきました。
考えてみれば、この講習会の間、少ない睡眠と食事の時間以外は、ほとんどテキストをもって勉強していました。それだけしなければついていけませんでした。だから身も心も本当にやつれてしまいました。しかし続けることが大事です。休まずに通いつづければ本当に力がつくことを保証します。

日進

夏期講習会のおかげで、スムーズに入ることができました。基本問題もあれば、入試問題もあり、内容的にはよかったと思います。十五回あった中で常に十番以内を保てたのは、やはりまちがった問題を確実にやったからだと思います。日進では、成績がよかった悪かったが問題ではなく、復習することが大切なのです。ぼくは復習を少しさぼって、十五回全部をすることはできませんでしたが、解説をすみからすみまで読んで、完全に納得するまで考えてください。日進の問題は十五回あわせると一冊の問題集にもなります。今考えてみると、日進は、ぼくがいちばん力を入れた問題集ではなかったでしょうか。

試験当日

東大寺学園高校は、二月十日(月)朝は六時前に起きたので眠たかったけれども頭がスッキリしました。御守りを二個つけたかばんには、必要所持物以外に心配でしたから参考書を入れていました。(結局、見なかったけれど)汽車の中でほかの受験生が参考書を見ていましたが、「今ごろ勉強しているのか、かわいそうな人だ。」と思い、友達としゃべっていました。受験場では、周りに友達がいたので気が楽でした。高校入試という雰囲気はなく、模擬テストを受けに行っている感じでした。内容は、さすが東大寺だと思わせる難問でしたが、自分はではできたんだと暗示をかけながらがんばりました。特に言うことはないですが、ヒヤリングは日進より聞きやすいものですが、記号でなく文で書かせるので注意してください。
洛南高校、二月十四日(金)中学校の先生、友達と一緒に行ったので、汽車の中は修学旅行のようでした。高校に着いてからは地図帳を見ていました。ほかの受験生は緊張気味でしたが、ぼくはなぜか余裕がありました。試験のはじまる前には合掌をし、中学校三年間のことを思い出しました。いろいろお世話になった先生の顔、苦しかった毎日の勉強、そして洛星中学校の発表のことが頭に浮んできました。試験は、予想外に数学が難しくプレッシャーを感じました。またひねくれた問題が多く、それらが心のあせりに追いうちをかけました。しかし、ほかの人もできていなかったようなので気分的には楽でした。

各科目別の学習内容など

ぼくは、学校の授業を基本に、成基の授業をのせ、足りないところをその他で補うという勉強をしました。

国語

一番苦手でした。理由は本をあまり読まなかったことにあると思います。そのため、この科目は、あまり勉強しませんでした。ただ、一度やった問題は必ず復習することを心がけました。また文学史や漢字など、確実に点をとれるものは、きちんとしました。問題文を何度も読むことも忘れずに。

  • 力がつく国語一~三(教学研究社)
  • やさしい古文(学燈社)
  • 漢字実力テスト一~三(旺文社)
  • 実戦の国語(晶文社)
  • 中級現代文問題(中央図書)
  • 簡明国語文法(日栄社)
  • 中学国文法(教学研究社)
  • 明解シリーズ(有朋堂)
  • 理解しやすい新古文・新現代文(文英堂)
数学

特別変わったことはしませんでしたが、とにかく数多くの問題をし、納得のいくまで考えました。そして、わかれば自分で模範解答をノートに書いてみるのです。これは随分、力がつきました。また、多くの問題をこなすとパターンがあるのに気付きました。おそらく高校入試程度の問題は、全く新しい形というものがないでしょう。ある基本に、いろいろと工夫がなされているのです。 それから、この科目を勉強して最も強く感じたことですが、数学は毎日やることが大切です。一度にたくさんやるより、少しずつでもコツコツとやるのがいいでしょう。

  • アタック一~三、高校入試(文研出版)
  • A クラスの代数・幾何(昇龍堂)
  • 新中学問題集 一~三(教開出版)
  • チャート式基礎と演習数学(数研出版)
  • 高校への数学日々の演習(東京出版)
英語

だいぶ波がありました。毎日コツコツとやりました。そして「英語を上達させたいなら単語を覚えることが、まず第一に大切なことで、単語を知っていればだいたい六割わかる。」とどこかの先生が言っておられましたが、本当にそのとおりでした。また最近、ヒヤリングの問題が増えてきているので、発音などにも力を入れました。

  • プログレス1~4
  • 新中学問題集一~三(教開出版)
  • チャート式基礎と演習(数研出版)
  • 実戦の英語(晶文社)
理科

数学と社会を組合せたような勉強をしました。ですから主に一分野なら、問題を多くこなしパターンを身につける、二分野では、興味をもって暗記する、といった感じでした。この教科は一、二年生のうちにしっかりと基礎をかためておくことが大切です(学校の授業を完璧にマスターする。)そして三年生に応用をするという勉強法にしました。

  • 総整理(教学研究社)
  • 自由自在(受験研究社)
  • 難問スイスイ(晶文社)
  • マイコーチ(学研)
社会

最も得意な科目でした。ただ覚えるだけで、点数がとれる唯一の科目です。覚えるのが苦手だと言う人がよくいますが、そんなことはありません。興味をもって、何度も繰り返せば覚えられます。皆さんだって興味をもった歌謡曲を何度も聞いたり歌ったりすると自然に覚えるでしょう。あれと同じです。この科目も理科と同じように一、二年生のうちにしっかりと基礎をかためていきまし た。一度覚えても、繰り返さなければ忘れるので注意してください。また、日進の復習は最低必ずやるように。そして日頃から新聞などを見るようにこころがけてください。

  • 総整理(教学研究社)
  • 自由自在(受験研究社)
  • 難問スイスイ(晶文社)
  • マイコーチ(学研)
  • ハイトップ(旺文社)
  • ズバリ要点(学研)
  • 日本国勢図会一九八五(国勢社)

まとめ

以上が体験記ですが、果たして皆さんの参考になったでしょうか。 人それぞれ、自分に合ったやり方があって、他人のやり方をまねることはありません。自分の決めた道を歩んでいけばいいのです。
しかし、ぼくは最後にひとことだけ言っておきたい。途中で投げ出すなということを。あきらめてしまうなということを。もう一度、自分の決心を思い起こしてください。そして立ちあがるのです。たおれても、傷ついても、ひたすら歩き続けてください。それがどんなに狭く、暗く、長いトンネルでも、きっと出口があり、輝きがみえてくるのです。
「初心を忘れず、ひたすら努力」これでぼくの体験記をおわります。

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