合格進学校 東大寺学園中学校

わたしの志は、

飛行機の設計者となり、地球の反対側まで二時間で行ける旅客機をつくることです。

JALの飛行機工場に行って飛行機とはすばらしいものだと思い、自分も飛行機に関わる仕事につきたいと思いました。飛行機は、ぼくが大人になるころには自動車に代わって人類の足になっていると思います。これからも技術が進歩していき、自家用ジェット機での移動も当たり前になると思います。いつか、より便利で快適な飛行機をつくれるように、これからも努力していきたいです。

幸運の貝殻

ぼくが成基学園に入塾したのは、小学三年生のときでした。三年生のときは、受験についてもよく知らなかったので、何となく合格すると思っていました。三年生のときがんばったのは最後ぐらいで、受験生としての自覚はまったくありませんでした。

四年生になったとき、算数科のY先生と出会い、少しずつ受からないかもと思い始めました。

そんなぼんやりとした不安の中で、五年生の夏まで塾に通っていました。このままではいけないと思い、ぼくはそれまで続けてきたサッカーをやめました。その分、日曜日が空き、その日も勉強するようにしました。

この時期に、第一志望校を東大寺学園中学校に定めました。学校見学に行って自分と合っていると感じ、何が何でもこの学校に行きたいと思い、さらに努力するようになりました。すると少しずつですが、成績も伸び始めました。特に算数の成績が良く、五年生の後半のオープンテストは満点が多かったです。

そのまま六年生の夏後半に入り、理科担当のK先生による暗記カードテストがありました。そのテストの結果はそれまでの中で最悪であり、ぼくは自信を完全になくしてしまいました。それまでの中で最悪ということは、自分は東大寺学園中など受からないのではないかと思いました。後期に入り、ぼくは理科の過去問がのっている緑本を、一週間に三校か四校やるようにしました。すると〈日曜進学教室〉の〈ウルトラコース〉の理科で六十五点以上を維持できるようになり、最高では七十九点とれるようになりました。そして全体の成績も伸び続け、ぼくは自信を取り戻しました。

十二月半ばに、ぼくは早めの前受験である海陽中等教育学校の特別給費生入試を受けました。海陽中受験日の前日はSSS二組の仲間が応援してくれました。いろいろな物をもらい、理科担当のK先生から幸運の貝殻もいただきました。さまざまな人たちが応援して送り出してくれて、また受験日当日は、担任のY先生と教室長のO先生が会場まで応援に来てくださいました。しかし、試験ではあまり良い感触をつかめませんでした。発表の日、母から不合格の結果を聞いたときは、多くの人たちの期待にこたえられなかったことと、自分が合格できなかったこと、灘中学校を受けることができなくなり、今までしてきた灘対策を打ち切ってしまわなければならなくなったことで、今まで人生で味わったことのないほどの悔しさを感じました。その日は悔しさのあまり、塾に行きたくないと思いましたが姉が行くのについてきてくれ、算数担当で担任のY先生に、「失敗した者が一番強くなる。隼也も悲しまずに努力しろ。」と言われ、自分を支えてくれている人はたくさんいるのだから、悲しんでいる時間があったら努力して勉強しようと思い、気持ちを入れ換えてがんばろうと思いました。そして、〈冬期講習会〉、〈正月特訓〉と必死にやり続け、家でも塾でも緊張感を持って勉強に取り組みました。

洛星中学校受験日の前日、ぼくは自信を持って、いつも通り取り組みました。そして東大寺学園中受験日の前日、洛星中も帝塚山中も合格していたことを知り、自信を持って臨むことができました。そして良い感触で終えることができ、一〇〇パーセント合格しているとは思いませんでしたが、一〇〇パーセント不合格ではないと思うことができました。合格発表の日、自分の番号を見つけたとき、ぼくはうれしくて、たまりませんでした。

関西の受験が終わり、ぼくは関東の開成中学校のための対策を始めました。一週間と少ししかありませんでしたが、ぼくは高い集中力をもって取り組むことができたと思います。そして、試験は良い感触をつかむことができ、開成中にも合格することができました。

今まで支えてきてくれた家族、共に努力した仲間たち、わかるまで教えてくれた先生方、ほんとうにありがとうございました。

これを書いている間に、海陽中の特別給費生入試のくり上げ合格の知らせがとどきました。幸運の貝殻のききめがあらわれたようです。